けっこんしきまでいっかげつ

私は本当に本気で世界人類の平和を祈るタチというか、全員が幸せであればそれにこしたことはないし、そのことは全員が願っているはずなのに、どうしてなぜ世界からは戦争が消えないんだぜ?とか本気でボンヤリ思っていたりする立派すぎるほどに立派な中2病なわけでして、こと思春期思想に関しましてはちょっとした自信アリってやつなのですが、『シムーン』は女子オタにとっての『涼宮ハルヒ』を読んで「ああそういえば私は一刻も早く大人になりたくて自分が少女であることなんて自覚したことはなくて、でも映画「桜の園吉田秋生原作)」が当時表現していたような少女達の芸術鑑賞物的な美しさというものもわかっていて、でも自分がソレにあたるとは思ってもみなくて、自分が嫌いで嫌いで嫌いで仕方がなかったあの時期こそが少女の時代だったんだなぁ」なんてことに初めて気付いたりしていて、そういえば吉田秋生はエッセイの中でピーターパン症候群はきもいよ子どもはみんな背伸びをして大人になりたいのが健全だと私は思うよ、だから未成年の煙草とか飲酒とか盛り場とか、そういうのは健全だよね、みたいなことを言っていたなーと思い出したりとかして、劇団四季かどっかのミュージカルソングに「はやく大人になりたいこどもたち こどもの頃にかえりたい大人たち」という歌詞があったなーって思出だして、少女でいたいままの少女(つまりはピーターパン症候群)はあの頃からすでにあった病(とあえて断言)だけれども、今ではすっかりその「モラトリアム希望!」みたいなものが当たり前になってしまって、大人になって自分の責任は自分で取れるようになりたいというあの身をよじるようなもどかしい感覚というものは前時代的な少女感覚になってしまったのかもしれないと思いつつ、でも初期のシムーンではそこにちゃんと言及してくれるんじゃないかという気配もあったよね、というかそれを描くためにアーエルは大人になりたくないと主張しているんだと思い込んでたんだよねっていうのは前にも書いたな、でもでもでも、昨今の実際の少女たちがモラトリアムを希望していようといまいと、少女というものを描くのであったら今の自分というものを嫌悪していて仕方がなくて早くここではないどこかへと行きたくて仕方がない、という人物なり心理なりを描かなくてはいけなかったんじゃないのか、全員が少女時代をいとおしみ「今の」自分をなんらかの形で刻みつけ残したいと願うというのはやはりオジサン視点からみたファンタジーとしての少女でしかなくてだから安易にネビリルとアーエルは恋愛じみたことにならざるをえなかったし、シヴュラの皆様がたは「やだっパラ様息が…っ」「わたしもー」きゃっきゃ、と意味不明なイチャつきを見せなくてはいけなくなってしまったんだよバーカバーカとイマサラながらにシムーンへの不満を書いてみたりして、ほいでもって私の中の優しさも変化するってやつで、世界人類の平和を願ってやまないですけれども私の両手は2本しかない、というか私の人生の時間は一本しかなくて一方向にしか流れていなくて、誰かのために今この時間を使ったら他の誰かのためには使えないのは当たり前で、どうしてもどうしても全員を笑顔にすることはできないことがわかって、だとしたら優しくする優先順位というものをつけなくちゃいけなくて、でもそれは人生において重要な人ほど高いかといったらそういうことでもなくて、何が言いたかったのか自分でも見失いつつありますけれども、私は本当にあの頃から変化はしたけど成長はしていないなと思うよというようなことを言いたいんだと思いますたぶん。

追記

先日、id:reriさんとid:doofratsさんとお会いして現在日本のアニメとテニミュ腐女子について憂いたりきゃっきゃしたりしてきたのですが、そのときに全員一致した意見として「男性のシムーンの感想が読みたい」というものがありましたので、われこそはという方は挙手を願います。自薦他薦は問いません。
私たちが欲しているのは、解説でもあらすじ紹介でもなく、シムーンを観て何を感じたのか、という「感想」です。シムーンはキミ達のその薄く逞しい胸も打ったのか? それを知りたい。