自分語りをしたり、日本を憂いたり

私には、人を思い遣る心が圧倒的に欠けている。


人が何を考えているのか、人が何を感じているのか、皆目わからない子どもだった。
相談事をされるのがずっと大の苦手だった。だって、私には「正しいこと」がなんなのかは理屈でわかるから言うことができるけれども、相談してきている相手は「正しいこと」を求めているわけじゃないこともわかっているのだ。
もちろん現代国語的な読解力で想像して理解したような顔をして、相手が求めている受け答えをすることはできる。でも、それは、本心からではなくて、本当に現代国語の問題に答えるように「解答を出す」作業なのだ。
そんなの、相談じゃない。
そう思って、ずっと真摯ではない自分が嫌いだった。相談されたら真摯ではない解答を出すしかないから、相談されることが嫌いだった。
そこから発展して、私の内面は相手を攻撃する。
だいたい、相談ってなんだ。相談して解決できるようなことなら自力で解決できる。相談というのは要するに、愚痴をこぼす相手がほしいとか、そういうことだ。
くだらない。
でも、おもいやりのない人だと思われたくはなかった。
人に相談されるような人でありたかった。
世界中の全員に愛され、頼られたかった。
めぐりめぐって、私はある時期から思い遣りのある人だと思われるようにと努力することにしてみた。
別にいいんだ、本当に相手の気持ちがわかる必要なんてないんだ。ただ、相手の言っていることをきちんと聞いて、想像すればいい。現代国語的読解に間違いはあまりない。人間は割と単純だ。
私は人を思い遣る心がデフォルトでは欠けている。
だから、たえまない努力が必要で、それが切れてしまうとひどく残忍になる。
ときどきは、気付いているのに怠惰ゆえにあえて放置したりする。


さあ、語りかけるぜ?


なあ、なぜ「相手がどう思うのか」を優先しないんだ。
なぜ「自分は」ばかりなんだ。
相手を喜ばすためだけに生きることは、そんなにも自己犠牲か?
ちがうだろう。
それは、誇るべき生き方だろう。


やりたいことをやって生きていくことが叶わなかった母たちの手で、やりたいことをやって生きていきなさいと教えられて私達は育った。結果、やりたいことがないことは罪であるかのように感じるようになり、ここではないどこかを求めるようになり、やりたくないことはやらなくなり、我慢をしなくなり、人を思い遣らなくなった、と私は思っている。
素直であることと、思うがままに振る舞うことは似ているようで異なる。