『君の名は。』
きみのぜんぜんぜんせフンフフーンでお馴染みの映画ですけれども。割と公開してすぐに行ってきました。だって、新海だから……。
近所の映画館が、いまだかつてみたことないくらい若者たちで埋められていて、そのことにちょっとぐっときました。わ、新海のアニメを、こんなにも、ふつうの高校生たちが、みにきている……!という。
で、お話としては私はイマイチ。いや、お話がイマイチなわけじゃないのかな。私は、この映画の一番大きなカラクリ部分は、ものすっごく好きなんです。ものすごく衝撃を受けたし、それで、それでどうするの、どうなるの!!って思った。
でも、致命的なまでに主人公の2人に気持ちが動かされなくてね……。これはもう加齢が原因かなって思うんですけれども。三葉の可愛さ、わかる。瀧くんの良さ、わかる。でも、瀧くんが三葉を探し始めてからの様子がどうしても「なんで??」って思ってしまってダメでね……。なぜ名簿で探し出せるのに神社の名前で検索しない、なぜそんな風景スケッチで探し出せる、なぜおまえはそのニュースを憶えていない、って、そのへんがいわゆる「ご都合主義」にみえてしまったんですよね。
上に書いたハイローなんてもうご都合主義ってなによ??って感じではあるんですが。でも、ハイローはちゃんと冒頭で示してくれてるんですよね、こういう世界ですよ、でたらめですよ、でもかっこいいだろ?って。君の名は。は、誠実ですって顔をしているのに、そういうとこが真面目じゃない。本当に本気で探し出そうと思ってたら、風景スケッチなんてそんな悠長なこと始めないだろー?良い感じのレストランの黒い制服のスカートにファンシーな刺繍さされたら頭どつくだろー?つか、繕いますーって言って手に持った糸が赤い時点で「まて」って言うよ私なら。顔の可愛い男子高校生相手だったから止めない気持ちもわからないではないけど。まぁ、私も奥寺さんではないのでしょうがない。何を言ってるのかよくわからなくなった。とにかく、いろーーーーーんなことが引っかかって、その引っかかりを押し流すほどの感動は、なかった。
でも。
この映画はやっぱり細部に新海が宿っていて、それは背景の美しさとか、音楽との兼ね合いの素晴らしさとか、そういうことではなくて(それももちろんあるんだけど)、思い込みだけで成立している世界である、とか、幼いころに決意した稚拙で純粋で美しいなにかをずっとずっと大事に守る男の子の美しさを美しいと称える感性、とかそういうものたちで。これが、この映画がいまの高校生たちにズシンと響いて刺さって話題になるんだとしたら、それは素敵なことだと思う。
私はもうその感性を多分手放してしまったのだけれど。
『HiGH & LOW』
映画好きの友人複数から「お前なんでいかねーの?」的に煽られたので、ゥオリャ!って公開が終わる1週間前くらいに観に行ったらくっそ面白くて、もう今はあの初見の時の面白さとか戸惑いとか爆笑とかを事細かに記すことはできないんですけど、とにかく最高でした。
冒頭、貧民街みたいなところが丸ごと燃やされてヤカラを大量にのっけたトラックが街につっこんできて可愛い子ちゃんが「はやくみんな逃げて!」って年寄を助けたりするところからもう最高で。世界観がね、一発でわかるじゃないですか。ほいで、燃え盛る貧民街の瓦礫の間から「ゆらり」って立ち上がるんですよ貧民街の神のね、ルードボーイズってチームのリーダーなんですけどね、これが、暗い目をさせたらいま日本で一番美しい男こと窪田正孝なんですけど、細い体で喧嘩が強くて儚い煙を意味するスモーキーって名前の堕天使でね、めっぽう強いけど病気を患ってて喀血するんですよーーーーー(ごろごろごろごろ)
ほいで、ナレーションベースのダイジェストで話が進んで(でも喧嘩シーンは丁寧でかっこよくて長くて)ドラマを観ていればこのへん2クールかけて丁寧に描かれていたのかな……BGMがかっこいいな……。鬼邪高校と書いて「おやこうこう」……。やべ、このバンダナとメガネの関係性はどういうもんなんだ……とか思ってるうちに最高に面白くてクールでかっこいい2時間があっという間に終わってしまいまして。
いやもう本当に面白かったです。うっかり通常の公開が終わってもまだ続けている映画館で実施された応援上映にも行ってしまった。最寄りの応援上映にいったらガラガラで地獄のような時間を過ごすことになったけど映画自体は面白かったからもうなんでもいい。
そして(まだ書く)初見から応援上映までの間にドラマを全話観たりもしたんですけど、映画みながら思っていた「この先代っぽい琥珀さんと九十九さんたちの物語が1クール目で、後輩っぽいコブラたちの話が2クール目かなー」みたいな予想をぼんやりしていたら、ドラマの1話冒頭も映画とまったく同じ「かつてMUGENという伝説的なチームがあった」「この地区を今は各チームの頭文字を取ってSWORD地区と呼ばれているッ」みたいな説明から始まったので伝説のチームは最初からナレベースの「ありき」なんかい!ってびっくりしてひっくりかえって爆笑して期待通りだーーー!!って一気に観ました。
で、ドラマ見たら、もっとハイロー好きになっちゃったので、10月に公開される映画も楽しみです。
(力尽きた)
(140文字以上はちょっと……)
観る直前にお友だちたちの「シンゴジに続いて斎藤工出ますよ」「終盤ちょこっとじゃん」って会話を読んでいたので、どこかなどこかな?あれ?エンドクレジットだぞ?まさかあの乱闘シーンにいたとかーーー?!?!うわ見逃したーっって思ってたら違ったので、ほどよいネタバレをありがとうな、と思いました。
『シン・ゴジラ』
公開から1か月くらいの間諸事情でみにいけなくて歯噛みしたり転がったり地団太踏んだりしていました。そして散々ネタバレを読み、感想を読み、考察まで読んでから行って観てもなお面白かった。
デン、デン、デンデン ドンドン
しすぎでしたけども。
初見の時はとにかくゴジラのでかさが怖くて怖くて、みんな地下に逃げてましたけどそれ蒸し焼きになるルートじゃないですか!!!ってハラハラしながら観てたんだけど、なんか蒸し焼かれなかったのでほっとしました。現実もしゴジラが来たらどうなるんですかね?地下、避難先になるんですかね?ならなかったとしても、ゴジラの進行ルート上にいたらもう他に逃げる先ないからしょうがないですね。
今も思い出しちゃう一番怖かったシーンは、男の人が一人で必死で逃げてるとこ。ああ、助からない、って思った。
2回目観たときにはもう怖さには免疫ができちゃっていたので、蒲田くんを愛でたり青いビームを出す口をかっけーなーって思いながら眺めたりできました。
ついったに書きましたけども、自衛官が「志願者を募りますか」「いや、ローテでいく」みたいな会話を交わすところがあって、そこがとてもとても好きです。
ルシファー吐き気がするほど愛してくれ
今年の夏は面白くて面白くて複数回劇場に足を運んでしまう邦画が2本もあったので良い夏でした。
『転校生 2015』
六本木ブルーシアターにて。
ちょっと前にももクロちゃんが主演で、映画と舞台になった『幕があがる』*1と同じ、平田オリザ脚本、本広克行演出の『転校生』。
『幕があがる』は、演劇部の子たちが、演劇というもの、演じるということ、その楽しさ苦しさ演じることに誠実であるとはどういうことかを教えてくれる顧問と幸せな出会いをし、唐突に失い、それでも自分たちの手で足で心で演劇を続けていくという、それはそれは美しく切ない、青春の輝きに満ちた物語だった。今回の『転校生』は、同じ高校のとあるクラスに転校生が来たある一日、クラスメートの一人が転校するらしい、ということがわかるとある一日の物語。何を乗り越えるでもない、誰が死ぬでも、誰がいじめられるでもない、本当に「一人の転校生がきて、一人が転校するっぽい」というだけの一日。
それがなぜこんなにも、胸が苦しくなるくらいに素晴らしいのだろう。
舞台の上のリアルって、なんだろう。
今回、客席まで大きくせりだした舞台を教室にみたて、本来舞台である場所は楽屋として客入れから公開されていた。そして舞台の上には大きなスクリーン。そこには、ト書きから台詞まで、全部書かれた台本が映し出されていた。
少女たちは、せりだし部分を教室として、その板の上にあがるまでは、袖中にいるかのようにふるまう。そして場が変わり、板から降りた後には、舞台裏のようにリラックスしてふざけあったりしながら、休み時間のように、放課後のようにそこから効果音を発する。誰かが弾いているピアノの練習の音、ふざけて吹いている笛の音、体育会系部活の掛け声、近く、あるいは遠くから聞こえるお喋り、放送部による呼び出しの声。
その、あの頃の放課後そのもののような音に、まず私はノックアウトされてしまった。
ああ、なつかしい。これは作られたウソの効果音だけど、なんて、なつかしい。
また、教室の中とされている舞台の上で少女たちは勝手きままにしゃべりあう。教室で過ごす時間がそうであったように、あちらでは最近読んだ漫画の話をしていて、こちらでは姉が赤ちゃんを産んだという話をしていて、時折、ねえ、課題図書きめたー?とあちらもこちらも一緒になって話す話題が出てくる。またそこから話題が派生する。カフカの変身を選んだ話。カラマーゾフの兄弟にしたけどロシアの名前わかんねーって話。仲良したちと、さざめきあう。寄せては返す波のように、本当に果てしなく続くように思える、くだらなくて他愛のないお喋り。無秩序で、適当なノリで流れていく、他愛もない話。よくある教室の、よくある風景。
全部台本に、書いてある。
舞台は不思議だ。私の母は舞台演劇が好きではない。映画は大好きなのに。理由は簡単で「ウソだから」。
もちろん、映画だってドラマだって脚本があって創作された物語だ。ウソだ。でも母は舞台だけが受け入れがたいという。生身の人間がいて、目の前のその人はリアルなのに、リアルだからこそ、ウソだということが明白すぎてダメなのだと言う。わからなくはない。世の中には割と多くミュージカルを受け入れられない人がいる。感極まった時に歌いだすという表現に抵抗を感じるからだという。それと、似たことだろうと思う。
例えば人が刺される。映画ならば「人が刺されたのだ」としてスンナリ受け入れられる。だが舞台では「人が刺された」けど「その人が本当に刺されてはいない」ことのほうが立ってしまうのだ。ましてやそこで「刺された〜〜」と歌いだしたら。
目の前の現実から、遠ければ遠いほど人は物語を受け取ることがたやすい。映像の向こう、というフィルターを通しているほうが、現実から切り離した「物語」として受け入れやすい。
『転校生』は、ずっとずっと「これは演劇ですよ」と観客に突き付けていた。「ウソですよ」と。
けれども目の前に立っている少女が、何よりも雄弁に、そこに立つひとりの少女をリアルにする。それは、生身の人間が持つ力なのだと思う。全力でウソだよーと叫んでいてもなお、目の前の少女がみせていることは、見ている人間にとっての「現実」で、その圧倒的な存在の力は目の前のウソを真実にしてしまう。それが、演劇の強さだ。舞台の上の少女たちは、「本物の」透明感やどことない不安感を、自然と、現実に、身にまとっている。あやうくて、明日には消えているかもしれない、映像には映らない、それは力だ。
本当に、本当に美しい夕暮れのラストシーン(台詞の詳細はうろ覚え)
教室にたたずむ、転校してきたけれどもなぜ転校してきたのかもわからない、存在のあやふやな少女と、間違いなくクラスの一員だけれども転校するのであろう少女、二人の少女が会話する。
「本当にこのクラスが好き?気に入ったの?」
「うん、だってみんな仲いいし」
「本当はそんなに仲良くなんかないよ。今日はなんか変だった」
このシーンをみるまで、私は内心「少女たちのリアルな一日を描くのに、いじめやトラウマや家庭環境の特殊さでドラマを作る必要なんてないんだな」とぼんやり思っていた。
転校生は、どこからきたのか、なぜ転校してきたのか本人もわからない、という謎の設定になっている。けれど少女たちはそこにあまり頓着しない。一時間目が始まって、授業があって、お昼休みがあって、流れる時間はなんとなく過ぎ去っていく。転校していく彼女は、教室でみんなの前で「転校するかもしれないんだよねー」と言う。軽く。雑談の延長で。
でも、ここで、ハッとさせられる。
ああ、今日は妙にみんな仲良くすごしちゃったちょっと変な日だったんだ。転校生が来たから。
そして、これまでと同じように、スクリーンにはこの先の台詞とト書きが映し出されている。
転校してきた少女が言う。
私、明日もこの学校に来られるのかな
転校する少女の台詞が映っている
大丈夫だよ。ここが、私の席、こっちが、大西さんの席でしょ
ここで、初めて、役者がスクリーンにない台詞を言い、スクリーンにない動きをする。
その、ひとつひとつの挙動が、一歩一歩が、本当に美しくて、胸を打って、私は泣いてしまった。
本当はそんなに仲良くないんだよ、というクラス。でも、その机のひとつひとつにクラスメートがいる。この席は、高田。この席は、マキちゃん。全員と仲良いわけがない。そうだったよね。確かにそうだった。転校しなくても、学年が進んで、教室がかわればそこはもう自分の席じゃなくなる。そんなことは知ってる。でもそんなことは問題じゃない。
学校に通っていたあの時、あの多感な時期、確かにあの席が「私の席」だった。
伸ばされた指先、触れそうで届かない、お互いの手。
目の前で繰り広げられるそれは、間違いなく、とてもとても繊細で美しい時間だった。
*1:これらの感想をどこにも書き留めてないなんて私はバカなんじゃなかろうか