昨日のことは忘れちゃおう

昨日、帰りのバスのなかでのこと。


そのオバチャンは、一見普通の外見で。流行の先端じゃないけど20年前でも20年後でも着ていられそうな無難な形のツーピースを着て、20年前でも20年後でも通用しそうな「白く塗って赤く紅をひく」お化粧に、スカーフなんかも巻いていた。ちょっと変わったことと言えばなんかずっと独り言を言ってるなあ、ってことと、両手一杯に持った破れそうな紙袋が謎だってことくらいだったんだけど。
優先席に、どかっと腰をおろそうとして、フと中腰で止まると、そのオバチャンはなにやら窓と座席の間をのぞきこんだ。そんで隣の席の人に一言。
「これ、私のじゃないわよね?」
窓と座席の間に押し込まれた紙袋はもちろんグシャグシャで、オバチャンが持ってきたものじゃない。おそらく、どこかで買い物をした誰かが買った中身だけ出して袋はそこに押し込んで行ってしまったんだろう、と推察されるような、デパートの紙袋。
聞かれた若者は怪訝な顔で
「違うと思いますよ、さっきからあったし」
と答えてあげている。
「そう……」
オバチャンは、腰をおろしたものの、どうも紙袋が気になって仕方がないらしい。
「なにかしらこれ。なにかしら」
「なんかシンナーくさいわ、これ」
「なんでかしら」
「あらシンナーくさい」
「なんだか体が変」
「シンナーくさいわ」
「変な感じ」
座って3分くらいの間に、にわかにオバチャンの中でサリン疑惑が膨れ上がってしまった。シンナーの臭いなんて、微塵もしていない。
周囲に気付いて欲しい気に大きな独り言を繰り返していたオバチャンは、誰も反応しないことに業を煮やして運転手に直訴しにいった。
「あそこの紙袋がシンナー臭いんです」
そして、元の座席にもどって、また独り言を始めた。


たぶん、オバチャンは、ちょっとだけ、どこか世間とずれているのだと思う。でも、服装なんかからも判断して、世間とまったく断絶した世界に生きているとは思えない。おそらく仕事を持っているんじゃないかと思う。
地下鉄サリンの事件と、昨今のテロ騒ぎと、いろいろなニュースが合致して我が身に起こる可能性を呼び覚ましたんだと思う。


なんだか、唐突にいろんなことが嫌になって、それは、オバチャンの独り言がウザイっていうのもあったし(正直、ンなわけねーだろ、被害者になりたがってんじゃねーよ、とか思っていた)運転手がオバチャンの訴えを見事にシカトしたっていうのもあったし、色々なことが色々だったんだと思うんだけど。
立ち上がって、「捨ててくるから」とオバチャンに言い捨てて、紙袋を取って、途中のバス停で降りてしまった。


他にどうしたらいいかわかんなかったんだよ。