『好き好き大好き超愛してる』 舞城王太郎

好き好き大好き超愛してる。

好き好き大好き超愛してる。

うおー!私は舞城王太郎を超愛してるつのー!!と叫びたくなった。ううう。やっぱり好きだ。お前が好きだー!!!
私はできる限り断言していこうと思っている。なにかにつけ。何度も言うけれども、断言することは危険をはらんでいるし、往々にして間違いであるし、誰かを傷つけたり苦しめたりする可能性が高い。それでも、曖昧にすることでごまかしてなんとか擦り合わせていくようなやり方が一番であるかのように思われているところで、誰かが何かを断言しないと進まないというか、どうにもしょうがないっていうことがいっぱいあると思っているから。だから、私は言語化することで私の本意と多少ずれることがあったとしても、断言する。
なんてな言い訳なしに、舞城は断言する。しまくる。ううう。しびれるーーーーー。
以下、内容に触れつつ感想

最初、これらは平行する物語たちなのかな、と思い、途中で、柿緒の彼の小説なのかな、と思い、最終的に、柿緒とその恋人の物語も小説なのである、と気付く。
と書いてしまうとメタとかなんだとか、そんな話になってしまうのだけれども。そんなこたー関係ないのだ。この小説において。書き手になった人間は、描き手になった人間は、自分の前の出来事や、自分の心の中の出来事でさえも、いつか発表してしまうということに恐怖する。そうして自分の中の感覚や感情やいろいろなことに「本当」かどうかの自信を失っていく。
今までにも、そういったことを描いた作品をいくつか目にしてきた。でも、これは別格だ。

物語(の中の物語の中の物語?)の中で、女の子たちは死んでゆく。恋人を残して(個人的にはニオモの話が好きでした。でもミスターシスターも捨てがたい。その名前のアホっぽさとか)。そこに投影されている「書き手」が書きたいものはしかし

いや僕は確かに柿緒が死んだことを書いている。それは解体されていろんな作品にいろんな形で組み込まれている。…(中略)…でも僕が『光』で本当に書きたかったことは、柿緒の身には起こらなかったことだ。僕は、それが誰かを殺そうとも、明かりというものはやはり美しく温かく人の気持ちを惹きつけるものだということが伝えたかったのだ。
そうだ、そうなんだ、物語というのは、そういうものなんだ!!と拳を握り締める私、でありますよ。もう、ほんとうに。
これは、正真正銘、愛の話なんだと思う。小説への愛であり、恋人への愛でもある。

それが本当の本心だった。彼氏だからそう言ったんじゃない。同情してそう言ったんじゃない。愛情から言ったのですらない。
逆のことはあっても、愛情によって言葉は演出されない。
(中略)
誰かのことを好きな人が相手のこと好きだと思うとき、そう言うとき、それは全くの本心で、どんな演出もない。
そうだ!そうなんだ!第三者に告げる言葉については保障されないけれども、少なくともわいてきた思いには、どんな演出もないんだ。そこを疑う必要なんて、なにもないんだ。ううう。

愛し過ぎていないなら、充分に愛していないのだ。
読みながら、電車で泣いて、カフェで泣いた。生まれて初めて本に付箋を貼った。舞城本人は、そんな読者をみたら「pgr」とか言うんだろうなーと思いながら。


あ、同時収録されているお話は、エロでした。セカイとカノジョと性欲のお話。気持ちいいことには勝てないよね。