「物語」のなにを楽しむか

小説も漫画も映画も舞台も等しく、物語を「物語」としてだけで純粋に捉えることをしなくなって久しゅうございます。なんでも分解したがるのは癖みたいなものなのです。
昔は中の人や制作にあたっての意図というものに一切興味を持たない作品至上主義で、「どんな崇高な目的の上に作られたものだろうと、できあがった物がクソならそれはクソだ!」とか思っていたのですが、最近は、めっきり作り手のココロザシみたいなものに心引かれます。
「ま、まるでできてないけど、こいつの目指したい場所は確かに光ってやがぜぇっ!」みたいな。
年をとったんだろうと思います。


『「やる側」視点は純粋に物語を楽しむことができないという悲劇を抱える。』という命題は、もう古今東西多くの人々が嘆き悲しみ克服し語りつくしてきたことですが。そしてたしかに私も「ああ、このシーンのただそこに在る美しさを無邪気に見つめることができたら」と思うことも、たまーにあるのですが。
でも考えてみたら、そもそも基本的に、幕が降りてからのステージが好きな人でした。芝居観て、カーテンコールで泣くタイプ。芝居そのものよりも衣装とか照明とか舞台装置とかに目がいくタイプ。


「知らない」→「知る」の変化はあっても「知る」→「知らない」はなりたたないから、2度とは戻れない青春の光的で悪くないよね、なんて、思ってもみたり。