少年愛漫画について君に語ろう(1)

いま現在会社におり、来客待ちでヒマなのだからってこんなことを書きはじめるのはどうかと自分でも思うのですが、まあ、そのへんは、アレです。
私とこのテの漫画*1との思い出というか、思いの丈というか、とにかくまあ気持の悪いことを書こうという魂胆ですので、みなさまビか袋をご用意くださいませ。さもなきゃ逃げろ!全力で!

風と木の詩』という衝撃

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

風と木の詩 (第1巻) (白泉社文庫)

初めてみかけたときは何ぶん小学生でしたので、アワワワと言って閉じたように記憶しています。
再会したのはちょうど中学一年生の頃だったかと思います。そしてそれは『風と木の詩』のOVA化の時期でもあったのです(たしか)。アニメージュの紙面いっぱいに広がったジルベールの憂いを秘めた顔。スキューン!ですよ。ズキューン!


この漫画のすごいところというか、私にとって衝撃的だったことは、どんなに過激な少女漫画(当時て言うならば、『♂と♀の方程式』とか)でさえも隠されていた少年の股間が描かれていたことでした。もちろんエロ漫画のようなグロテスクな描写ではなかったのですが、シルエットでもなく、そこだけ描線が途切れるのでもなく
「は、生えてる〜〜〜!!!」
だったのです。それは、隠されることのない性描写の象徴であり、些末なこととして捨て置くことのできない衝撃でした。
そう、『風と木の詩』は物語りとして捉えるならば間違いなく「少年達の純粋すぎる思いと「愛」のありかたについて問う」物語りだと思うのですが、一方で赤裸々な性描写、性欲というものの存在について突き付けるものでもあったのです。
肉体的な快楽というものを教えられているジルベールと、何も知らないセルジュ。ジルベールにそれを教え込んだオーギュはこう言います。


人は誰でも性の前に泥臭く汚れて行く
小悪魔的でありながら、なんの打算もなく、命すらも投げ打ってセルジュを愛することを至上とするジルベールと、そんなジルベールを愛しながらもジルベールのためにすべてを投げ打つことはできなかったセルジュ。
この物語を成立させているのは、ジルベールという特異な存在です。汚れていながら汚れていない、奔放で気高い*2美しい少年。
この物語において、セルジュとジルベールは悲劇的な最後を迎えます。けれどもそれは、決して男同士だからではなく、彼等二人があまりにも純粋であり若いからであり、「生きること=生活していくということ」という現実との折り合いをつかせかねたためなのです。

*1:実際に即した同性愛漫画ではなく、ファンタジーとしてのホモ漫画。ここではいわゆる「やおい」とも一線を画しておきたい。なぜならば当時まだ世にはいわゆる商業的BLものはほとんど存在していなかったから。やおいとは、あくまでも同人誌のものであり、少年愛漫画は今ではその根底の美学(美学!!)などを共有するものとして同カテゴリーに捉えることも可能だけれども、やはりそこはそこ。別物なのであります。

*2:関係ありませんけども、私はジルベールが自分の首に結んでいるリボンで自分の首をしめて自殺をはかるシーンにも衝撃を受けたものでした。け、気高すぎる…!!