わかったようなことをしたり顔で書くのが大好きです

それにしても私が驚いたのは、自己防衛のハンパなさで。そもそも独自の文化感は強いのですが、それは自分たちの罪深さを知っているから謹んでいるというよりも、誰も責めていないのに振り上げられた拳におびえているように見えるというか。
いや、まあ、もちろん虐待を受けた子どものように、過去に殴られた記憶があるから防御の姿勢を取るのだろうということはわかる。自分が殴られていなくても、殴られている友人や友人の友人をみたことから学んだりしたんだろうってことはわかる。
たしかインターネットが始まる前のオタクたちはみなそういう側面を持っていたと思うのだけれど(それでも中には強い人たちもいて、そういう強烈な人たちがひっぱっていっていたんだろうな、という参考文献=ワタシノ記憶な適当記述)、いつのまにやら居場所を見つけてなんだか世間にも認知されちゃって生きやすいんだか気持ち悪いんだか、とにかく妙にどうどうと声を張り上げるようになりましたねナウ、と感じるのですが。(もちろん私もその一人)
で、えーとなんの話だっけ。そうそう、自己防衛。
まだ目に見えない敵やら、目に見えない被害者やら、に対してさまざまなことを想定して備えることは何も悪いことではない。むしろ偉いと褒められるべきことなのだと思うのだけれども。でも、隠れたり自覚的ですよと宣言したりすることは、見えない被害者への謝罪や見えない敵を敵にしないための気遣いというよりも、それらの行為を自分の罪の免罪符にする自己防衛にしか見えないのであって、自己防衛そのものは悪いことではないけれど、それを自己防衛の手段だと思わずに謝罪や気遣いの一種だと思っているならば問題だ。


でもその「本質的な解決」から目をそむけてそもそもの問題がなにであるのかをケムにまくような姿勢こそが、性質を決定づける柱だったりしますよね。


というようなことを、私はいつから病的な眼鏡男子よりも能天気な体育会系男子を好むようになったんだっけナーと思っていて考えました。
でも、今でも二次元では頭のおかしい眼鏡男子が一番の好物なんです。心の奥の厨は永遠。