『ファミリーポートレイト』桜庭一樹

ファミリーポートレイト

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帯に最高傑作って書いてありましたけれども、『赤朽葉家の伝説』のほうが数十倍面白いので皆さまはだまされませぬよう。
前半の、コマコ不幸な幼少期偏は不幸すぎてというか、不幸な幸福っぷりが割と美しくて面白かったです。またしても絶世の美女かよって思いました。でもいいの。たぶんこれがすげー直球のこの人の業で、以前に某さんから「半端な美人だよ」と評されていた桜庭一樹本人のお顔をこないだNHKかなんかでチラリとみたらば、どちらかと言うと「痩せているというだけで若干美人扱いされる年増オタク」といった風情(喋り方の影響も大きいです)(これはフォロー)で、この人が圧倒的な美人をテーマにしてしまうという業はとても愉快だわ、と思ったから良いのです。
で、も。はい、ここからネタバレ

文壇バーで語り手になりはじめてからの、作家としての話がほんっとーーーに耐え難かったです。具体的にどう耐え難いかと言うと、「お前がこれを書くな」感です。
なんていえばいいのかな。書くという作家の性なるものに対して物語の口を借りて語れるほどの何がお前にあるんだよ!と問い詰めたくなる、という感じ。もちろん桜庭一樹さんは立派な作家さんであるわけですけれども、なんかこー、なんかこー、こんな風に語っちゃダメなんじゃねーの?と思ってしまったわけです。
受け取り方は読み手の内面の鏡ですから、皆さんはどうぞこんな私を哀れんだら良いですよ。
しかも最終的に母になって生きるという営みに参加しますよENDかよ、というね。通り魔に刺されるかと思ったらそれもなかった。
年をとって人が丸くなって、人生を営むことの意味を知るという物語としてはスタンダードに直球に書かれていて、わかりやすいし悪くないのかもしれないとすら思うけど、でも、こう、そんなことを語るためにコマコをあんな風に物語っていたの?と思うとつまらない気持ちです。
こんな小説、誰かの夜にそっと忍び込んだりしないよ、絶対。絶対。
そう、本は、小説は、物語は、誰かの堪え難い「夜」にそっと忍び込み寄り添って、救ってくれたりするものだけれど、そのことをこんなふうに物語ってはいけない、と私は思う。物語のもつ救済の力を語りたいなら、実際に読者を救済するような物語を書くべきで、救済しますよ、と書くべきじゃない。んじゃ、ないか。な。
と、割と散々な感じの感想です。買おうと思っている方は、自分の自意識をよーくかんがみて、桜庭一樹の自意識と相対して耐えられそうかを検討してみたほうが良いと思います。わたしは読了にすっごい時間かかりました、とだけ言っておきます。


あちこちで話題の『黒百合」をついに耐えられずに買ってきたので、これから読みます。どちらかというと『黒百合』自体を読みたいというよりは、その解釈の解説と、例の豊崎さんのアレを読んで関連の日下さんの文章などにも目を通したい、という出歯亀な感じの動機です。