『転校生 2015』

六本木ブルーシアターにて。
ちょっと前にももクロちゃんが主演で、映画と舞台になった『幕があがる』*1と同じ、平田オリザ脚本、本広克行演出の『転校生』。

『幕があがる』は、演劇部の子たちが、演劇というもの、演じるということ、その楽しさ苦しさ演じることに誠実であるとはどういうことかを教えてくれる顧問と幸せな出会いをし、唐突に失い、それでも自分たちの手で足で心で演劇を続けていくという、それはそれは美しく切ない、青春の輝きに満ちた物語だった。今回の『転校生』は、同じ高校のとあるクラスに転校生が来たある一日、クラスメートの一人が転校するらしい、ということがわかるとある一日の物語。何を乗り越えるでもない、誰が死ぬでも、誰がいじめられるでもない、本当に「一人の転校生がきて、一人が転校するっぽい」というだけの一日。
それがなぜこんなにも、胸が苦しくなるくらいに素晴らしいのだろう。



舞台の上のリアルって、なんだろう。

今回、客席まで大きくせりだした舞台を教室にみたて、本来舞台である場所は楽屋として客入れから公開されていた。そして舞台の上には大きなスクリーン。そこには、ト書きから台詞まで、全部書かれた台本が映し出されていた。
少女たちは、せりだし部分を教室として、その板の上にあがるまでは、袖中にいるかのようにふるまう。そして場が変わり、板から降りた後には、舞台裏のようにリラックスしてふざけあったりしながら、休み時間のように、放課後のようにそこから効果音を発する。誰かが弾いているピアノの練習の音、ふざけて吹いている笛の音、体育会系部活の掛け声、近く、あるいは遠くから聞こえるお喋り、放送部による呼び出しの声。

その、あの頃の放課後そのもののような音に、まず私はノックアウトされてしまった。
ああ、なつかしい。これは作られたウソの効果音だけど、なんて、なつかしい。

また、教室の中とされている舞台の上で少女たちは勝手きままにしゃべりあう。教室で過ごす時間がそうであったように、あちらでは最近読んだ漫画の話をしていて、こちらでは姉が赤ちゃんを産んだという話をしていて、時折、ねえ、課題図書きめたー?とあちらもこちらも一緒になって話す話題が出てくる。またそこから話題が派生する。カフカの変身を選んだ話。カラマーゾフの兄弟にしたけどロシアの名前わかんねーって話。仲良したちと、さざめきあう。寄せては返す波のように、本当に果てしなく続くように思える、くだらなくて他愛のないお喋り。無秩序で、適当なノリで流れていく、他愛もない話。よくある教室の、よくある風景。


全部台本に、書いてある。



舞台は不思議だ。私の母は舞台演劇が好きではない。映画は大好きなのに。理由は簡単で「ウソだから」。
もちろん、映画だってドラマだって脚本があって創作された物語だ。ウソだ。でも母は舞台だけが受け入れがたいという。生身の人間がいて、目の前のその人はリアルなのに、リアルだからこそ、ウソだということが明白すぎてダメなのだと言う。わからなくはない。世の中には割と多くミュージカルを受け入れられない人がいる。感極まった時に歌いだすという表現に抵抗を感じるからだという。それと、似たことだろうと思う。
例えば人が刺される。映画ならば「人が刺されたのだ」としてスンナリ受け入れられる。だが舞台では「人が刺された」けど「その人が本当に刺されてはいない」ことのほうが立ってしまうのだ。ましてやそこで「刺された〜〜」と歌いだしたら。
目の前の現実から、遠ければ遠いほど人は物語を受け取ることがたやすい。映像の向こう、というフィルターを通しているほうが、現実から切り離した「物語」として受け入れやすい。



『転校生』は、ずっとずっと「これは演劇ですよ」と観客に突き付けていた。「ウソですよ」と。
けれども目の前に立っている少女が、何よりも雄弁に、そこに立つひとりの少女をリアルにする。それは、生身の人間が持つ力なのだと思う。全力でウソだよーと叫んでいてもなお、目の前の少女がみせていることは、見ている人間にとっての「現実」で、その圧倒的な存在の力は目の前のウソを真実にしてしまう。それが、演劇の強さだ。舞台の上の少女たちは、「本物の」透明感やどことない不安感を、自然と、現実に、身にまとっている。あやうくて、明日には消えているかもしれない、映像には映らない、それは力だ。



本当に、本当に美しい夕暮れのラストシーン(台詞の詳細はうろ覚え)

教室にたたずむ、転校してきたけれどもなぜ転校してきたのかもわからない、存在のあやふやな少女と、間違いなくクラスの一員だけれども転校するのであろう少女、二人の少女が会話する。

「本当にこのクラスが好き?気に入ったの?」
「うん、だってみんな仲いいし」
「本当はそんなに仲良くなんかないよ。今日はなんか変だった」

このシーンをみるまで、私は内心「少女たちのリアルな一日を描くのに、いじめやトラウマや家庭環境の特殊さでドラマを作る必要なんてないんだな」とぼんやり思っていた。
転校生は、どこからきたのか、なぜ転校してきたのか本人もわからない、という謎の設定になっている。けれど少女たちはそこにあまり頓着しない。一時間目が始まって、授業があって、お昼休みがあって、流れる時間はなんとなく過ぎ去っていく。転校していく彼女は、教室でみんなの前で「転校するかもしれないんだよねー」と言う。軽く。雑談の延長で。



でも、ここで、ハッとさせられる。



ああ、今日は妙にみんな仲良くすごしちゃったちょっと変な日だったんだ。転校生が来たから。



そして、これまでと同じように、スクリーンにはこの先の台詞とト書きが映し出されている。
転校してきた少女が言う。

私、明日もこの学校に来られるのかな

転校する少女の台詞が映っている

大丈夫だよ。ここが、私の席、こっちが、大西さんの席でしょ

ここで、初めて、役者がスクリーンにない台詞を言い、スクリーンにない動きをする。

その、ひとつひとつの挙動が、一歩一歩が、本当に美しくて、胸を打って、私は泣いてしまった。
本当はそんなに仲良くないんだよ、というクラス。でも、その机のひとつひとつにクラスメートがいる。この席は、高田。この席は、マキちゃん。全員と仲良いわけがない。そうだったよね。確かにそうだった。転校しなくても、学年が進んで、教室がかわればそこはもう自分の席じゃなくなる。そんなことは知ってる。でもそんなことは問題じゃない。


学校に通っていたあの時、あの多感な時期、確かにあの席が「私の席」だった。


伸ばされた指先、触れそうで届かない、お互いの手。
目の前で繰り広げられるそれは、間違いなく、とてもとても繊細で美しい時間だった。





*1:これらの感想をどこにも書き留めてないなんて私はバカなんじゃなかろうか