夢ははっきりと遠くまで見えていたのに

エウレカはOPもEDもちょっとどうかと思うくらいに挫折しまくっているので、レントンを心の底から愛し応援したいという気持ちになってしまうのです。大人として!!!(大人はそんなにアニメに思い入れしません)(オトナじゃないオトメです)(オトメット参上!!)

『チャット隠れ鬼』 山口雅也

チャット隠れ鬼

チャット隠れ鬼

う。ううううん。イマイチ。山口雅也ということに期待しすぎましたか。ううううん。
山口雅也自身もネットでチャットとかしてるんだろうなーということは端々から読み取れました。チャットのログの進みっぷりとかは読んでいてなかなかリアリティーがあります。主人公をネット初心者に設定してあるところはお上手。
しかし、想定読者をネット経験者に限定して用語をガリガリだしてネットを知らない人は何が起きているのかもよくわからない、くらいのものにしてしまったほうが絶対に面白かったと思います。
というか、ですね。

会話に同じフレーズを使っていることは、ネットやってるやってない関係なく読者は気付いてしまうので、よっぽどの文章量の中に埋もれさせるとかなんとかしないと、あのPCに詳しい先生が生徒にAIとの会話をさせていた時点で色々みえてしまうわけじゃないですか。そこからなんのひねりもなく終わってしまうというのが非常に面白くありません。
連載という形ならば読者はログを記憶していないかもしれないけど、一冊の本としてはひどい。お粗末です。
他にも細かいことを言い出せばキリがないのですが。まぁ、なんていうか、あれです。ネットの匿名性とかネカマとかを題材にしたのではもはやネット小説としては古臭すぎてどうしたらいいものやらです。
以前にどこかで誰かも言っていたけれども、ネット小説ならコレだ!という金字塔的作品が(小説に限らず)いまだに存在しないのは、ネットの時間が犬時間なせいもあるのかもしれません。作品として醸造されるのに半年かかったとして、その半年の間にもネットでは流行が変化するのはもちろんのこと、言葉の定義すら変化していってしまう。
もうちょっと時間が経過して、それでも普遍である何かを体感している人が作家としてネットを扱って、それで初めてネット題材がうまく料理できるんだろうなー。でも、それって、そろそろじゃあるまいか。
まぁ、あれです。ネット題材の一番のネックは、読者を選んでしまうということ。なんだかんだ言ったって一般人(!)を見回してみればネットをしている人のほうが圧倒的に少ない。でも本読み層に限ればネット率たかそうだよなー。誰か面白いネット小説かいてくださいよ。もしも、もう存在するなら、それを教えてくださいよ。

読みふけったあとでおもむろに自分語りって…

人生を狂わす「電車男
http://piro.sakura.ne.jp/latest/flakes/040trainman.html#fear
アルテイシアたんの日記がお好きだった方などもご一読を。
以上を読んで一人語り。
非オタの仲間入りをしたいがためにオタを封印した時期のある人は多いのじゃないかと思います。って、オレオレ。それオレ。オレがそう。
なぜオタを10年も封印したのか。非オタの前でオタクは人格を失うから。その一言です。自虐をし、自分をネタにし「オタクだけど面白いよね」「オタクだけどオシャレだよね」などの逆接の接続詞をつかった評価を得てもなお友達として対等であることが難しい。それがオタク。
しかもその努力には常に引け目が伴う。*1卑屈な精神で生きることは、やはりつらいことなのです。呼吸するように漫画を出版社ごとに発売日チェックし本屋に自分用のリストがあるような生活を、週に50作以上のアニメを観続ける生活をおくったままで非オタみたいな顔をすることには限界があるのです。
インターネットはオタクの楽園なので、そこで出会う人々もオタク率は高く、オタクであっても楽に呼吸をして生きていっていいのだと勘違いしてしまいがちですけれども(そしてこうして舞い戻ってしまったわけなのですけれども!!!)一歩自分が楽に呼吸している環境から外に出てみれば、そこはやはり以前となんら変わらない世界が無限に広がっていることに気づきます。いまや私の人間関係はほぼインターネット一色なのでめったに気づかされませんけれども、やはり外界はオタクには荒涼としている世界なのです。それが証拠に、ほら、オタクでも気にしないよ、という人たちだってこんなことを言います。
「見た目さえ普通なら気にしない」
「普通の人のように振舞うだけのスペックがあるなら気にしない」
それはすなわち「自分が(自分の友だち、彼氏、彼女、などなど)がオタクだと他人(家族、友人、すれ違う見知らぬ人々)に思われたくはないから」に相違ないのではありませんか。
ああ、いま「それ私が言った台詞です」と思った私の非オタなお友達、何もあなたは悪くない。オタクを見下すことは、なんら悪いことではないのです。非オタは悪くない。悪いのは気持ち悪いコミュニケーション不全のオタクたちなのです。オタクは劣等感を抱いているべき気持ちの悪い存在で、だからこそ独自の文化(独自の!文化!)をはぐくむだけの暗黒パワーが持てるのであり、鬱屈こそが創造と妄想と消費の源であり、虐げられていていいのです。だってそれがオタクのアイデンティティなのだから。認められるために必死で努力をしてつらい思いをしていて、いいのです。それでいいのです。それくらいのことをしないと一般人の方と口をきいていただけるレベルに達することができないのです。私は自分がなにを書きたいのか見失っているのです。えーと…?
うん。まあ、電車男アルテイシアがより深い絶望をオタクに与えるっつうのは、とてもよくわかるというか。ありもしない希望をさもあるかのように見せるのは酷いですよ、というのはオタクの精神構造を理解するにあたって大変わかりやすい話だなぁと思ったのでした。まる。

*1:オタクのややこしいところは、オタクであるということを、非オタに見下されている自分たちを、自分でも見下している、自分の所属しているカテゴリーを見下しているということなのです。サブカルの人たちをごらんなさい、彼らのなんとオサレですからと本気で胸を張っていることか。オタクは彼らのようにはなれない。オサレになれなかったサブカルがオタク。オサレになったオタクがサブカル。そんな定義づけでごめんなさい。できることならサブカルと呼ばれる人になりたかった…っ!!と正面きって言うこともできないから、サブカルをオサレに逃げたとプゲラしてみたりもするのです。オタクって乙女な心の持ち主だよね…っ!