『チョコレートコスモス』恩田陸

チョコレートコスモス

チョコレートコスモス

ふと思い出せば、私が現役で舞台に立っていたのはもう10年も前になります。
『STEP ON A CRACK』という芝居を足掛け3年ほどやっていました。母親と死別したエリーが父親と二人で愉快に暮らしているところに、新しいお母さんがやってくるのだけれども、エリーは新しいお母さんを受け入れることができず……、という、よくある話と言えばよくある話です。私はその物語で主役のエリーを演じていました。そしてエリーには「影」がいたのです。
チョコレートコスモス』の最終オーディションを読みながら、あの頃のことを思い出して思い出して仕方ありませんでした。もちろん私は東響子のような女優ではありませんし、影という役の持つ意味も全然ちがいます(葉子の演じた影がSTEP ON A CRACKの影に一番近い)。でも、その芝居で一番「美味しい」のは「影」であるという点では完全に一致していました。
私はエリーを演じながら、ひたすらに影を食うことを考えていたように思います。今思えば私と影は50:50でなくてはいけなかった。そういう舞台でした。でも、そんなことは考えていませんでした。ひたすらに、子ども達の目*1を自分に引き寄せておきたかった。東響子はすごい。
でも、でもね。演劇が生ものだっていうのは、共演者によって、その芝居によって、演技が変化せざるをえないから。じゃないですか。寸分たがわぬ芝居を繰り返すのだったら、それは、本当に素晴らしい演技なの? 一人芝居と、影とはいえ共演者が舞台上にいる状態とでは演技が変化するのが必然じゃないの? など。混乱しながら読みました。
何が言いたいかって、読みながら平静ではいられなかった、ということです。その天才的な役者どうしの共演、見せてみなさいよ!という気持ちもあり、自分が演じ手だったときの未熟さを思い出して死にたいような気持ちもあり。くそ、あるもんかよ、そんな境地が、という気持ちもあり。
あまりフラットな心で読むことができなかったので、この本への評価はよくわかりません。面白かったけど、天才役者を描くにはどうしたって北島マヤ姫川亜弓にならざるをえないよな、とか、そういうことを考えたりして。
自意識のない役者っていうのは面白い設定でしたけれどもね。それでも舞台に立ちたい、そこにあるものをみたいっていう動機は、説得力を感じなかったなぁ。

*1:私は地方の小中学校のいわゆる「芸術鑑賞会」で演じるドサ役者だったのです

感情追記

お風呂にはいりながらずっと、今ならエリーをどう演じるか考えてしまった。いかんなー。生活を侵食されるような読書は近すぎていかん。
関係ないけど、ガラスの仮面において一番現実から遠いのは、北島マヤの演技力でも月影千草の存在でもなく、あれだけ演劇というものに社会が注目しているという世界そのものですね。