読書日記 『暗闇の中で子供』 舞城王太郎

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

暗闇の中で子供 (講談社ノベルス)

読み始めてから「あ、奈津川家の話しの続きかー」と気付く。帯に書いてあるっつの!あるっつの!
いやもう、これがとにかく面白い。でもってこの、なんていうのかしら一人称の文章のリズムの素晴らしさ。グルーヴ感、とどこかのどなたかが書かれていて、ほほぅグルーヴ、って思いつつ、私にはグルーヴ感ってものがどうもいまいちピンと来ないのだけれども、ニュアンスから察するにその表現が一番しっくりと来る感じ。文章が走ってるよ!でもすべってないよ!
ボンボンバン、バンバンボボン。
てなことを途中までは激しく感じながら読んでいたのだけれども。


<以下激しくネタバレしていきます>


いやいや、そういう文章的な描写技術の云々は置いておいて。なんすかこれは。なんなんすかこれは。ものすごく激しく意味がわからない。いや、厳密に言えばわかっているような気がするのだけれども、やっぱりわからない。何を書いているのかわからないと思うけれども、読んだ人なら苦笑まじりに(頭が弱いからねえ、ことこサンは)同意してくれるに違いない。
というわけで、読んでいない人は、本当にこの先を読まないほうが良いです。
ここを読む前に一刻も早く本屋さんにいって(もしくはアマゾンで)本を入手して読むべきです。


えーと、これは、つまり、森博嗣の『笑わない数学者』への挑戦もしくはオマージュ的なアレなのでしょうか。単に円の内側外側云々という表現だけではなく。なんというか、小説であるということ、その内側に存在している三郎たち、その語りを全面的に受け入れる読者と言う存在。『笑わない数学者』における裏トリックと性質を同じにする、けれども、よりエンターテイメントとして成功していて、読者にそれと気付かせる作品、そういう解釈で合っているのでしょうか。
三郎が作中で何度も語るように「理由」を求めたり正解を求めたりということはいかにも三文ミステリ的脳味噌であるに違いないと思うのですが。それを求めて読むべきものではないのだ、と思うのですが。
タカシくんは、椅子に縛られて吐瀉物を詰まらせて死んでいたではないですか!
ユリオと初めて会ったのは手の平池ではないですか!
オカチのキャラどうなってんの!
てか、時系列どうなってんの!
楓の左腕はどうなってんの!
ああ、読者が目をつむってなかったことにできる矛盾の範疇をつきつけられる。すごい。


ああ、そして、この作中で語られる「物語」が必要である理由。こういう直球が私は大好き。そうだそうなんだよ三郎ちゃん!と激しくうなづきながら読んでしまう私のかわいらしさ。
(ちなみに私は脳内でイチローさん、ジロちゃん、サブローちゃん、シローちゃん、と呼んでいて、その事実に気付いた時の自分のキャラ読み体質にゾッとしました)


作品全体を通して問われる「(ミステリ)小説とはなにか」という問い。三郎が代弁する(?)作者の魂。どうしたわけだか爽快ですらある暴力。んでもって、愛。何層にもなるレイヤーたち。

私は、こういう小説が、大好きです。読んで良かった。