奥さまは魔法少女

女子高生に続いて奥さまシリーズ最終回を視聴。 いやーひどいアニメでしたね。あまりにもひどいので、どこまでねらっているのかちょっと判断しかねるものがあります。(書いているうちに考えが変わってきてしまったよ……!)
嬉子さん結局なにひとつしていません。ただひたすらに「街をまもりたいのー」「たつみさんがスキなのー」「街をまもりたいのー」「たつみさんがスキなのー」「キスはだめなのー」えええい! うるせーばか!
その街にしたって

みんなが寄り添って、助け合って、たまにはおせっかいを焼いたりなんかして

っていう描写どこにあった?だし。そもそも世界の設定がさっぱり見えないのじゃよ。タツミさんのこと電車で逃がそうとしてたしさ。なに?世界って、その街限定なの? え? 街以外の世界はどうでもいいの? という。
いやー皆様が書いてらっしゃいますけれども、嬉子さん本当に中身ひどいな。いや、井上喜久子17歳ですオイオイさんがどうこうという問題じゃなくて。中の人ってことじゃなくて。最後のほうでは指摘されてたけど、エゴっぷりが。というか、指摘されたのに結局のところ「たつみさーんたつみさーん」しか言ってなくて、クルージェの元に駆けつけるのも間に合わなくて、自分に都合のいいことをタツミさんに言い訳するばっかりで
……って、今気づいたんですけれども、つまりこれは、嬉子=ボダってことだよね
あーなるほど。なるほどなー。だから世界が狭いんだ!! わぁ、すごい全部つながった。オレ天才だ。ああ、だからタツミさんを選んだんだ。誰もがタツミさんのどこにそんなに惚れるのかさっぱりわからねーと思いながら視聴していたかと思うのですが、なんてことはない、魅力なんて必要なかったんですよ、タツミさんに。なんでもかんでも受け入れて耳に優しい言葉を吐いてくれれば、それでいいんですよ。しかも、元旦那の出版記念パーティーであんな騒動を起こすというこれまたボダ(というかDQNというか)っぷり。(タツミさんはあまりにも描写が足りなくてこれ以上掘り下げられないけど)でもその大人として非常識な行為に、嬉子は涙してしまうわけです。嬉しくて。ボダだから!!
ちょっと面白いので、このままもうちょっと考えてみます。
キスというのは成長の象徴で、魔法少女であることに固執してキスを避けて生きてきた嬉子は身体だけ成長しちゃって中身は子どもなわけですね。でも、第一話で衣装がきつくなっちゃったーと言っている通り、身体だけは27歳だかなんだかになっちゃっているから、どうしても中身と外見がズレて歪んでいくわけです。嬉子が「お母さんがーお母さんがー」言ってる(ある意味で、自分の人生の責任をいまだに親に依存している)のに対して、魔法少女であることを卒業した女友達連中に子どもがいる対比とか、そう考えると実にお見事。
嬉子にムカついた人たちは、それで正解なのですよ。これは、中身が育たなかった女性の歪んだ人生を描いたすごく斬新なアニメだったのだから。
でもって、このアニメはそれだけでは終わっていない。
魔法少女として世界を構築できるのは、未熟で成長過程にある少女だけという設定。それは「セカイ」と書き換えてもいい。だから街なんです。狭いんです。だから世界がどこまでなのか明確じゃない。だから、あのカラスひきつれたブルガちゃんは、ヴァレンタインをちょっと傷つけただけでうろたえてしまう。ブルガちゃんにとって世界を作るだのなんだのということたちは、悪ふざけの範疇だったということです。彼女は子どもだからね。
学校が火事になる話が面白かったのも当たり前のことで、あそこではちゃんと子どもたちが子どもらしくがんばって、そして、子どもらしく泣いて自分の等身大の世界をちゃんと獲得して成長する過程だったわけですよ。クルージェはだから、セカイを構築できた、と。
うわー。もしかして、すごいアニメだったんじゃないのか、これ。ボダがいかに迷惑かを物語りを通じて教えてくれるアニメ。そして、これ肝心なところですけれども、たとえボダに干渉されようとも、健全なる若者(クルージェ)は、健全に自力で成長しうる、という希望の物語。
わーすごい。感想を書いているうちにすごい良作になってしまった。どうしよう!!
えーと、とりあえず、教訓。キスはキス適齢期にちゃんと済ませておけ、と。