テニミュという特殊構造

日本において演劇は、作品単位でのファンがつくということはあまりなく*1て、演劇やミュージカルを観に行くというときには演じている役者が誰々だから、とか、どこそこの劇団だからとか、誰々の脚本だからとか、とにかく構成している要素のどれかが魅力的だから観に行くというパターンがほとんどで、作品そのものを目当てに行くということはほとんどありません。だって、上演期間短いですからね。役者をいれかえて超ロングランとかやりませんから、作品そのものを目当てにというのは不可能に近い状況にあるのだから当たり前です。
ところが、このテニミュにおいては「テニスの王子様」という作品がまずありきなわけです。出ている役者のファンだから観に行ったという人も中にはおりましょうが、大多数の観客にとっては「テニスの王子様のミュージカル化作品だから」が舞台に足を運んだ入り口だということです。*2
普通の舞台ではまず役者(なり脚本家なり劇団なり)としての存在ありきなので、その役者(脚本家、演出家、劇団)を追いかけようと思えば追いかけられるし、ある作品の上演が終了してもあまり「終わりだ」感はない。のですけれども。テニミュの役者というのは、テニミュの○○だからこそ良いわけで、つまりはまず役ありきなわけで、テニミュという舞台を離れてしまったらそれは既に求めているものとは別物にならざるをえないのです。同じメンツで違う物語の芝居をやられても、それじゃあ意味がない*3
中の人にもキャッキャしてしまうけれども(だからこそライブが成立する)、じゃあ今後彼らを応援していくかって言われたら、多分そうでもないと思うのです(もちろんこれがきっかけで出ている役者の熱狂的なファンになった人もいるだろうしそれが彼らの仕事に繋がっていったらこんなに幸せなことはないと思うけれども多分そうはならなくてこの舞台が終わったらこの舞台を頂点として振り返る人生を送ることになる人も大勢いると予想される)。
テニミュ氷帝編の特典映像(千秋楽の舞台裏映像)を観たときに、テニミュに出演している役者の方々というのは、キャラクターを演じているキャラクターを演じているという二重のキャラクター構造を持っていると感じました。それはまさに上記のことが関係していて、事前に目の前の人が「ただの人である」という認識の前に「テニミュのあの人」と認識してしまっているから勝手に観客が思い入れてしまうわけです。ゆえに役者そのものではなくて「テニミュのあのキャラを演じていた○○さん」というキャラがそこには登場してしまう。
その構造が、そのまま舞台上に登場したライブでした。そこにはテニプリの物語は存在していないし、そこで歌っているのはまぎれもなく「ただの役者」なのに、氷帝跡部であり忍足であり青学の手塚であり越前なのです。でもって彼らもそれを演じている。演じているのに、それはテニスの王子様ではない。
これは、本当に不思議な感覚でした。(以下、続くかもしれませんし続かないかもしれません。ライブの感想は書くよ)

*1:劇団四季と宝塚は例外

*2:それが人気を持ち始めて中の人のファンも増えて、ついには本編を離れてこのようなライブに至ってしまう。これはすごいことだと思いますよ、本当に。だってライブって言ったって彼らはテニプリのキャラのままなんですから。曲もテニミュのままなんですから。こんな興行が成立しちゃうなんて、本当に稀有なことだと思います。

*3:今書いていて思いついたのですが、たとえば氷帝のメンツが学園祭でライブをやることになった、という設定とかで学園モノとして単体で芝居をやるならそれは観たい。でもそれが氷帝ではないどこかの架空の学校ということになったら、たとえ各々のキャラの設定が氷帝でのキャラそっくりであっても魅力は半減する。というか観に行くかどうかもあやしい。つまり、そういうことです