02話のあの、泉のあとの泣き崩れシーン。あそこを観ていてどうにもならなく涙が流れてそこで気付きました。
これは断じて百合アニメなどではない。
これは、かつて少女であり処女であった腐女子のためのアニメです。


801を二次創作、BLをオリJUNE、ドリは自分置換、と定義したとします。
私は完全に801を好む古いタイプです。BLを好む方は割と近いところにおりますが、ドリは実はノーマル好きよりも遠いところにいる、と私は思っています。乱暴に言ってしまえば、801とBLは自己否定、ノーマルは妄想、ドリは自己愛だからです。自分の理想とするキャラと、よりにもよって自分を恋愛させるなんて信じがたい。
人類生誕の昔から、腐女子はなぜ腐女子になるのか、というのは多く語られてきているところですが*1私が自分自身を考えたとき、一番強く思いことは「自己への強烈な否定」「自己と同一の性すら否定したい気持ち」というものが根底にあった、ということです。手前味噌でアレなのですが、mixiに自分で書いていたシムーン感想メモの

自己の性の否定と、でも否定できない事実と、せめてもの不在を願う

という言葉が全てです。
そして、自己の存在をむしろ大肯定であるドリ寄りの方たちとは大きく一線を画す「自己(の性)の不在」を強く夢見ずにはいられなかった私たち(あえて私たち)にとって、このシムーンというアニメは大変に大変に地雷です。
「受」を自分に置換し夢みていたならば、男になるか女になるかと問われたら男を選ぶでしょう。ドリならば、女を選ぶでしょう。けれども私たちは、どちらを選ぶこともできない。存在したくはないのです。どちらとしても。
いや、もしも今選択肢を与えられたらわかりませんよ。けれども、17歳の頃の私ならば。何一つ言葉にしたくない。言葉には「言葉」という形があるから、形にしてしまったら残ってしまうから、残ってしまったら逃げられなくなってしまうから。そんなことを日々強烈に考え誓っていたあの頃ならば。
泉によって定められてしまった性別に泣き崩れる彼女をみながら、戻れないことに、確定してしまったことに、ひいては「生きて」いかねばならないことに泣き崩れるその感性はまさしくあの頃のアレなのではないか、と思い当たってしまいました。
そして、このアニメの中で不確定な少女たちが不確定な少女であり続けるためには、戦争をし続けなくてはいけない。敵を殺し続けなくてはいけない。どこまでも非生産的な存在でなくてはいけないのです。嗚呼。嗚呼。思わず漢字で連呼ですよ、嗚呼。
id:reriさんはこのアニメを「24年組的」と称していたのですが、それはまさしくその通りだと思います。ジルベールが否定した「世界」が、泉の選択の後には待っているのです。つらい。


あと、書いているうちに舞-乙HiMEになぜあんなに心引かれたのかもわかってきたような気がしました。いや、単純に面白いアニメだったわけなんですけれども。やっぱりあの世界でも「処女」であること(女にならないこと)が乙HiMEの条件だったわけで、そのへんが琴線に触れていたのかもしれません。