『となり町戦争』三崎亜記

となり町戦争 (集英社文庫)

となり町戦争 (集英社文庫)

ごくごく平凡に暮らしているサラリーマンの「ぼく」が住む町で、ある日突然となり町との戦争が始まって…というお話。
うーん。正直微妙、かなぁ。地域振興事業としての戦争、というのは面白いネタだし、前半はかなり面白く読んだんですけれども……。後半がなぁ。

海外戦争体験者の主任が予想以上に語り好きでガッカリ
セックスシーンがあまりにも露骨に春樹チルドレンでガッカリ
とちょびっとづつガッカリを積み重ねることになりまして。
香西さんをつかみきれない「ぼく」というのが、戦争とのスタンスともかぶってある種のリアルさを出していたのに、どーーーも納得のいかない感じに美化された「香西さんの中の戦争への心の処理」が色々崩壊させてしまったというかなんというか。うーん。わからないものをわからないと描くのは良いんですけれども、なんつーか都合良くしか見えなかったんだよな、香西さんが。特に、となり町での任務が終わって以後の香西さんは、「ぼく」にとっての「戦争」をわかりやすくするための装置にしか見えない。
そういう意味で、主任の存在も都合が良すぎるというか、うーん。これは書き下ろしの別章ってやつがなかったらまた評価が違ったと思うんですけれども。人を殺すことに関して、この主任語りすぎじゃないですかね。言いたがりにしか見えない。
たとえ自分の住む町で戦争が起きていようとも、目の前で起きている事以外は起きていないのと同じだって、わかってるよ、そんなこと。誰だって。
森の中で轟音をたてて倒れた巨木のことを、そんな風に同列で書かないでいただきたい!と思ってしまったこの感情はなんだろう。こう、ただあるがままに受け入れていく、っていうような、その、この作品そのものが持つ姿勢が私の癪にさわるだけなのかな。
ああー。これは小説書きに対してタブーというか、言ってはいけないことですけれども「あなたは戦争や殺人をこんなふうに書くだけの何があるんですか」と問い詰めたい気持ちになった、というのが一番正確なのかもしれない。
軽く書くな、というんじゃない。エンタメ結構。暴力結構。好きなことを書いたらいい。
そういうことじゃなくて、別章の彼女がチーフの前で自分の言葉の重みのなさにうちひしがれたように、この作者はうちひしがれるべきなんじゃないか?と思ってしまった、ということです。「手を替え品を替えて『現代における戦争と現代を生きる私たちのリアル』について語ろうとしているけれど、でもそれ実のところアンタ自身自分の言葉でつかめてるわけ?どういう根拠で?」と問い詰めたくなる。
これを筒井が書いてたらどんなに面白い読み物だっただろう、と夢想する。