ミュに関する雑感、あるいはテニミュという奇跡

比較するようなものではない!ということはさておいて!(懇願)
通常、ミュージカルやお芝居というものは、踊りも歌も台詞も演技もできる限り稽古場で完成させて披露するもので、これ以上努力する余地はない!あとは観客という異分子を入れてどう変化するかだ!!というところまでもっていってから幕が上がるのが理想なんだと思うのですよね。人からお金をもらって舞台に立つ側の覚悟として、というか。
(もちろんアドリブ芝居だとか一概にはいえないものがあるのですが、あくまでも「覚悟として」「これ以上稽古の余地はない」状態で初日を迎えるのが理想じゃないかしら、ということです)(そんな状態はありえないよ派もいらっしゃることと思いますが、ということも含めて)
で、テニミュというものは、大きくその定石から逸脱している*1にも関わらず成立している、ものすごく特異な存在なのだと思うのです。永遠に「完成」がこない、というか。あの若者達の成長過程そのものが「見世物」となっている感というか。完成したものを板にのせてしまったら、もうそれはテニミュではないというような。
たとえば、元々中学生という設定年齢からはかけ離れた年齢のキャスティングをしているのだから、とキャストを続行し続けて、円熟した演技での青学メンバーになっていったら……と想像していただければおわかりかと思います。(ただし、私はDVDでしか観たことがないのですが、初代の頃はまた違う状態だったとは思います)
キレイに踊れて、聞きほれるような歌を聴かせてくれて、初日も千秋楽も基本的にはブレのない芝居をする。そんなテニミュ、わたし、求めてない!!


今回観たエアギアは、芝居の定石にとても近かった。磐石の芝居をしたうえでの上手な客席いじりの数々しかり、アドリブのはさみ方しかり。エアギアミュージカルは、おそらく漫画にもアニメにも興味のない人が観にいっても、それなりに楽しんでくることができたと思うのです。そこには演劇としての普遍的な面白さが、きちんと存在しているから。これは、素晴らしいことで、アニミュというジャンルの門戸を広げる可能性だと私は思います。
が。
その道は、つきつめていったら、NODA MAPや劇団四季やブロードウェイ*2なのだと思うのです。


テニミュの道は、つきつめていったところに何があるのか、さっぱり見えません。おそらく、道はないのです。
だからこそ、おそらく、テニミュの跡を継ぐなにかを今後つくることは不可能なんじゃないか、と感じるのです。
「不完全なままに幕があがることが完成形である」というイレギュラーさを、悪い意味ではなく「見世物」として成立できる。少なくとも、乙女たちのハートをわしづかみ、時には(ニコニコ動画などで)乙女ではない皆様のハートすらもわしづかみ、しかも、商業的に大成功をおさめている。
どういう要素がどう噛みあって現在のテニミュが生まれたのか、「不完全」であることが「完成形」であるがゆえに、誰にも分析できない。振り付けも作詞も脚本も、ありとあらゆるスタッフやキャストという要素をテニミュと同じにした別の作品を作っても、なぜかテニミュのような珍妙なのに素敵で中毒的な魅力を持っているような作品にはなりえないのは、「ない」を探すようなもので、不可能なことだからなのじゃないかと、思うのです。
そしてその奇跡をおこしている「このとき」「この場所で」「この人たちが」という刹那っぷりや唯一無二っぷりというのは、まさしく演劇が本質的に持つ最大な魅力なわけで。
こんなにも演劇としての定石を逸脱しているにもかかわらず、演劇としての本来的な魅力に最も根ざしているテニミュというものを、生で観ることができる時代に生きる私たちは、とてもとても幸せです。

*1:もちろん、役者もスタッフも完成を目指していることはわかっています。彼らの努力を微塵も否定しません。けれども、どう考えてもテニミュにおける歌や踊りはプロの技ではない、と断言できるレベルだということもまた事実のはずです

*2:これらをひとくくりにする意図をお察しください