『東京タワー』リリー・フランキー

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~

号泣したのであります隊長。最後のほうの数十ページは泣けて泣けて泣けて泣けて鼻水も涙もダダ漏れでした。
が。
なんというか、これはずるい。泣ければ面白い本かと言ったら違う。いや、面白い本だったんだけれども。なんて言えばいいんだろうな。なにかどこかが腹立たしいのですよ。
まず第一に、私にはこの人の文章が読みづらかった。ぶっちゃけて、下手だと思った。長い1文の中で言っていることが変化している。あるひとつのエピソードを語っていて、それに関連する話や、関連していないけど連想された話を挿入するときのやりかたが、2行空白あけでただ挿入される。など。エピソードの積み重ねをいかに見せるかが作家の仕事じゃないの?といいたくなる。伏線だと思っていたエピソードが拾われていないとか、なんの前フリもなく後半になって重大なことが明かされるとか、数えあげればキリがない。
読みながら、何度も「え?この人なに言ってるんだ?この文章で」と読み返した。こういうつっかかりは、正直本への没頭の邪魔になる。
別に、独特の文体であることには抵抗を感じない。文章そのものの武骨さは、味と言っていいと思う。けれども構成力が圧倒的に不足していると強く感じる。ひとつひとつの文章の構成もだし、段落ごとの構成もだ。だから、これが初稿ですというのなら大絶賛できる。ここから全体の形を整えるなら、素晴らしい。でもこれが完成形なんだよね。
ただこれは、作家なにしてんだ、と言うよりは、編集なにしてたの?ということになるのかなとも思う。そしてたぶんそれへの答えは、下手に手を入れることでリリーさんの文章の持つ空気を壊したくなかった、というところなんだろう。
第二に、おかんの死というものをこんなにも正面から、しかもリリーフランキーが書くというのはずるい。これは題材的にはいわゆる「お涙ちょうだい」と言っていい私小説だ。けれども書き手がリリー・フランキーで、しかも真正面からストレートに書いているがために、何か本来こうした題材のものに対して課せられるデメリットを回避できているように感じられてならない。


つまり、一言で言うならば「リリーフランキーが書いたから」で許されていることが余りにも多い。


そのことを丸ごと否定はしない。許されようとしている、のではなくて、許されている、であるというのは作家として稀有なことだし評価すべき部分なんだと思う。作家読みというものも世の中にはあるのだし、私だってリリーフランキーの本だから読んだのだ。でも、こういうやり方は一冊限りにしてくれよ、と思う。
そして、次の本を本屋さんで見かけるのだけれども手を伸ばす気にはなれない。
つまり、私はこの本に号泣したし面白かったけれども、そういう評価をした、ということなのだろう。